弁護士等情報

振り返ると・・・

一、十二歳

 肺結核で、小学三年生を二度やった。風土病で、左耳の聴力を失い、右耳は軽度難聴になった。復学したら、落第坊主と囃したてられ、腕白達に、病み上がりの体を投げ飛ばされて、校庭の砂を噛む日々だった。
 黙って登校したのは、事実を話せば、母が泣くからだ。

二、二十四歳

 二年浪人して大学に入った。毛沢東の「文芸講話」に魅了され、美容師さん達のサークルを作った。東京の夕刻、中野駅の改札口で美容師のサッチャンとハッチャンの帰りを、いつも待っていた。見つけて、手を上げると、サッチャンとハッチャンは手を振って駆けて来た。彼女達の下宿で、次回の催しを相談した。陽は輝き、空気は香ぐわしかった。
 彼女達と別れる日が来ようとは、思いもしなかった。

三、三六歳

 三三歳で、弁護士になった。仕事は苦しかった。午後二時頃になると、微熱が出た。
 お医者さんをまわっても、原因不明という。微熱は、二年程続いた。
 ストレスのためだったのだろう。

四、四八歳

 四六歳で、独立した。随分、遅い独立だった。
 地上げ屋さんとの紛争に明け暮れた。
 怖かった。垣添誠雄弁護士を、応援に呼んだ。パンチ頭の雲つくような大男たちを前に、垣添さんが「お前らの親分を殺してきて、その首をここに置け。話は、それからじゃあ。」と、凄まじい啖呵を切った。横で、私は震えていた。

五、六〇歳

 阪神大震災で、人生観が揺らぎ、共同事務所にした。一年で、弁護士さんに逃げられた。内定していた五〇期の修習生も、断ってきた。夜半、目覚めると、女房が、いつも目をあけていて「可哀相ね、可哀相ね。」と頭を撫でてくれた。三人の 女性事務員さんが、毎日、毎日、慰めてくれた。
 お蔭で、もう一度やり直す気になった。

六、最後に

 振り返ると、私は、何回も落ち込んだが、母、サッチャン・ハッチャン、女房、事務員さん、そして、書き忘れたが、気の強い妹に励まされ、何とかやって来た。
 今、気が付いたが、支えてくれたのは、全員、女性だった。
 駄目な男だったなぁ、俺は。

平成11年1月 神戸弁護士会会報 当たり年の弁